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1933年の神話─ヒトラー政権の教訓─

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ヒトラーをめぐる神話

アドルフ・ヒトラーという、誰もがその名を知っている独裁者がいる。多くの人々がヒトラーから学ぶことができる教訓を探し、今日の日本の政治に対しても含意があると考えて議論を展開している。

しかし、その中のいくつかは単純な事実誤認に基づいていたり、論究が不十分であったりするものがある。以下、いくつかのヒトラーをめぐる「神話」について考察を展開しようと思う。

 

ヒトラーは民主的な選挙で選出された?

多くの民主主義に批判的な論者が言う言葉に、「アドルフ・ヒトラーでさえ、民主的な手続きを踏んで誕生したのだ。民主主義は必ずしも最良の指導者を生むプロセスだと限らない」というものがある。

これは事実の半分を言い表している点で、重要な指摘である。しかし、事実の半分しか言い表していない点で、問題があると言わざるを得ない。

1932年11月の選挙(ヒトラー政権以前の、最後の選挙)で、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の得票率は33.1%だった。さらに、その前1932年7月の選挙に比べて得票率を減らしている(約4.2%減)。当然、議会の単独過半数には足りていない(総数584に対し議席数196)。つまり、投票所に向った、約3分の2のドイツ人は、ナチズムを拒否したのである(1932年11月の投票率は80%、つまり有権者の26%しかナチ党に投票していなかった)。このように、ヒトラーが「民主的な手法に則って」政権を獲得したのだという言明は、完全な事実とは言い難いのである。

 

ヒトラーは大衆運動で政権を掌握した?

デモや直接運動によって、政策や政治を変えようとする企てがあらわれると、ヒトラーやナチスを思い出す人々が多いようである。過激なシュプレヒコールや、自分たちにこそ民意があるのだという主張は、確かにヒトラーのそれと通ずるものがある。しかし、「ヒトラーが議会を軽視して権力を掌握した」という主張にまで至ってしまうと、そこにはやはり行き過ぎをみとめざるを得ない。

先述のように、ヒトラーは選挙で過半数を獲得することができず、政権をとるには別の保守政党との連立を余儀なくされていた。では、ヒトラーは議会に突撃隊(ナチスの暴力組織)を突入させたり、デモ隊を国会に招き入れたりしたのだろうか。そうではない。むしろ、それらはヒトラーにとっては足かせとなっていた面もあり、政権掌握後の1934年には過激な突撃隊は粛清の憂き目にあうのである。

 

ヒトラー政権への道

当時のヴァイマル共和国は、大統領内閣制をとっていた。とはいっても、現在の大統領内閣制とは少し異なる面があるが、さしあたって、大統領が首相を任命するという政治システムだという理解で、ここでは問題ない。

ヴァイマル共和国の大統領は、パウル・フォン・ヒンデンブルクという軍人あがりの人物だった。ヒンデンブルクはあからさまにヒトラーを蔑視しており、度重なるヒトラーの首相就任要求を拒否していた。ヒンデンブルクにとって、ヒトラーは、所詮なり上がりの小物に過ぎず、首相にはとてもではないが似つかわしくないと思われたのである。

そして、1932年の選挙はヒトラーにとっては敗北であり、まさにナチスの命運が尽きたと言われていた時期だった。そんな中では、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命するということは、おおよそありえないという見方が一般的だったのである。

では、なぜヒトラーはその僅か数か月後に首相に就任できたのだろうか。それを説明するには、当時の首相、クルト・フォン・シュライヒャーと、前首相フランツ・フォン・パーペンについて言及しなければならない。

 

ヒトラー政権を生んだ確執

当時のシュライヒャー政権に対して、前首相のパーペンは好意的な感情を抱いていなかった。また、シュライヒャーはその横柄な態度から敵が多く、ヒンデンブルクにさえも疎まれるなど、政治基盤を自ら危うくするような軽率な行動や判断をとることが多かった。

それに対して、パーペンは、自身の政権がシュライヒャーによって瓦解させられたことへ復讐心を抱き、そのためにシュライヒャー政権を打倒しようと考えていた。そこでヒトラーを利用することにしたのである。

ヒトラーが政権をとる上で乗り越えなければならない障壁はいくつもあったが、そのうちの大きなものの一つが、ヒンデンブルクであった。パーペンはこの点において、大きな役割を果たした。彼は、ヒンデンブルクにヒトラー政権になっても、ナチ党による単独政権ではないなどという理由を並べ立て、その懐柔に腐心した。結局、パーペンの工作が功を奏し、ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命するのである。

 

「権力を手渡された」男、ヒトラー

このような政治過程を的確に描写した著作が、『独裁者は30日で生まれた』(ターナー・ジュニア著、関口宏道訳、白水社、2015年)である。ヒトラーは結局のところ、敵失によって政権にあやかることができたのであり、そこには圧倒的な民意も過激なデモ運動の介在も、積極的に見出だすことはできない(もちろん、それらの果たした役割は決して小さなものではないが)。いずれにせよ、ヒトラー政権が選挙によって、あるいは、過激な大衆運動によって議会軽視のもとに誕生した、というような見方は、いずれも事実の半分しか捉えていない議論だと言わざるを得ないのである。

ターナー・ジュニアは実に的確な言い回しでこう述べている、「彼の第三帝国の神話の多くの場合と同様、1933年1月31日はヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツの命運を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのである」。

このような事実から我々は何を学ぶべきだろうか。いくつも教訓はあるだろうが、恐らくそのうちの一つは、権力を持っている人間の責任の大きさであろう。

 
議会を軽視したのがヒトラーではなく、よりによって、議会で中心を占めていた、大統領や首相、前首相であったことが、ヒトラー政権を生んだのである。このことは、現代の民主主義の政治体制の国にも大きな教訓をもたらすであろう。すなわち、誰に権力を持たせるか、それをどのように行使するかという点が、史上最悪の指導者を生むことがありうるのである。
それは、民主主義のもつ愚かさや、デモや過激な運動に対して警鐘を鳴らせばいいという、聞きなれた解釈だけでは防ぎようのないものなのである。

民主主義である以上、誰に政権を任せるかという選択は、常に自分たちの責任となって返ってくる。ヒトラー政権の教訓は様々あるが、今日でその表層しか伝わっていないように思われる。もしも、その教訓が十分に活かされないのであれば、私たちを待っている未来は、決して明るいものではないだろう。

 

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