日本 社会

「右」と「左」はなぜ分かり合えないのか?

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鬱屈した政治状況

民主党と維新の党が、新党名を「民進党」とすることにした。自民党どころか、安倍晋三首相一強とも言われるような状況の中、野党は選挙などで協力することにより、与党に対抗しようとしている。

しかしながら、強大な与党の前に、弱小な野党が離合集散を繰り返してきたのが日本政治である。政権を担った民主党の無様な失敗は、「何はともあれ協力」という方針が、政権担当能力や、統治能力に対して、いい影響をもたらさないということを何よりも示している。民進党が政権交代可能な野党になるにはまだまだ道は遠いと思われるが、政党政治が健全に機能するためには、安定した野党が存在していることが望ましい。「何はともあれ協力」という方針をいかに発展させることができるかが、試金石となるだろう。

 

私たちの見方を左右するもの

政治学では最近、道徳哲学や道徳心理学の成果が積極的に取り入れられるようになってきている。そこでは、私たちの政治への見方や意見が、イデオロギーや感情によってかなりの程度、左右されていることが示唆されている。

たとえば、ジョシュア・グリーンという、哲学者であり、心理学者でもある著名な研究者による『モラル・トライブズ』(竹田円訳、岩波書店、2015年)という本がある。これは、功利主義を擁護する立場から書かれたもので、この主張自体も大変興味深いものがあるが、ここでは興味深いエピソードをこの本から引用しよう。

あるデモ行進を何人かの人に見せてその感想を聞く。そのデモは、マイノリティの保護を訴えるものであり、当然、共和党支持者の人はこのデモを「やりすぎ」「迷惑」「言論の自由の幅を超えている」と見なした。民主党支持者においてはその逆であり、「言論の自由の行使」だという肯定的な見解を示したそうである。

結局のところ、人々は自分のイデオロギーと合致するものを肯定的に捉え、そうでないものは否定的に捉える。これは当たり前のように聞こえるが、深刻な事実でもある。

 

相手を説き伏せるときに用いられるもの

このような党派性にも関わらず、多くの論者は自身が「中立客観的、冷静に、そして科学的な根拠をもって」いるものだとして主張を展開している。右であろうと左であろうと、相手はイデオロギーによって目が眩んでいる状態だと考えている人が多いように思われる。お互いに、膨大なデータやエビデンス、事実を並べ立て、相手の主張がいかに間違っているか、相手がいかに荒唐無稽か、相手がいかに嘘つきかということを暴きたてようとしている。そして、彼ら彼女らは、最後に「これだけのことが明らかになっているのに、未だに自分たちと反対の立場をとっているのは、頭がおかしいか、宗教の信者(合理的、理性的な話が通用しない人)にでもなってしまったのだろう」と言うのである。

しかし、実際にはある個人の事実認識の能力には限界がある。どれ程努力を重ねたとしても、客観的に世界を把握することは困難であり、科学的な根拠を求めたとしても、それすら曖昧で、いくらでも解釈しようがある、というケースは多い。どれだけ冷静さや平静さを装い、常識的に振舞ったとしても、ある特定の立場やイデオロギーから完全に自由でいることは、ほとんどの場合不可能なのである。

 

イデオロギーは悪か?

イデオロギーという響きは、そこには客観的な議論はなく、断定的な物言いのみが存在し、過激な「信者」たちが跋扈している状況だという印象を抱かせるものである。しかし、実際にはイデオロギーから完全に自由な人はほとんど存在していない。多くの人がある特定のイデオロギー(その濃淡はあれど)の眼鏡を通して世界を眺めるのである。このことは、決して咎められるようなことではない。「真実」(誰もが同意できるような内容)が存在しない中で何かを判断しなければならないとき、私たちの参照軸はイデオロギーや価値観しかないのである。

むしろ問題なのは、「あいつらは特定のイデオロギーに囚われて何も見えなくなっている。私はそれができるのだ」という思い込みである。こうなってしまうと、相手との対話どころか、自分の考えに賛同しない人を徹底的に攻撃するしかなくなってしまう。右と左の話が全く合わなくなっているように感じられるのは(右派が語っている日本と左派が語っている日本が同じ国とは思えない)、お互いにお互いを話が分からない、対話できない存在なのだと決め付けていることに起因している。

そもそも、政治や政策に関わることは、全て事実で白黒分けられるようなことばかりではない。そこには価値観やイデオロギーが介在して当たり前なのである。社会に関わることを、データや事実だけで、全くの争い無く決めることができるという発想こそ、警戒しなければならない。右と左の話が全く合わなくなってきているのは、お互いにお互いが、誰もが同意できる強靭な根拠に基づいて話をしているのだという思い込みにその原因があると考えられる。

 

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