日本 社会

政治の変わらなさ─「契機」をどう受け入れるか─

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期待過剰な「18歳選挙権」

18歳に選挙権が引き下げられることになり、多くのメディアで特集が組まれ、数々の出版社から本が出され始めている。そこには、主権者であることの説明や、投票や選挙の心得、民主主義のイロハや、生き方論まで様々な内容が含まれているようである。

とは言え、本編集部がかつて論じていたように、被選挙権の引き下げの効果は限定的であると見るべきだ(「18歳選挙権」で救われない若者には何が必要か?)。過剰な期待は、結局何の変化ももたらさなかった、という落胆と失望を招く可能性を高めるものであり、一概に選挙権の引き下げで、若者が社会を変革する、というヴィジョンに飛びつくのは軽薄に過ぎるであろう。

 

3.11という経験

このような、「日本がきっと変わる」という物語が日本社会に横溢した最近の事例は、何と言っても3.11であろう。あの時、人々は必ずこの国は変わるし、変わらねばならないと考えて行動し、発言した。誰もがTwitterで侃々諤々の議論を展開していたことを覚えている人は多いのではないか。

今から五年前のことなので、あの時の社会の雰囲気を詳細に思い出すことは難しくなっているかもしれない。市民レベルの「ナラティブ」(物語)の全てを網羅することは困難であるが、知識人、言論人レベルにおけるそれであるならば、多少は可能であろう。そのことを鋭く行った本が『3.11 震災は日本を変えたのか』(英治出版、2016年。原題 3.11: Disaster and Change in Japan, 2013.)

著者のリチャード・サミュエルズは、エネルギー、安全保障、地方自治の三つの枠組みから、それについて主にオピニオンリーダーが何を発言していたか、結果として何が変わったかについて分析している(ただし、原著は2013年出版なので、それまでの分析にとどまっている)。

 

自らの物語を強化する「契機」

サミュエルズは三つのそれぞれの側面について、言説の変化、結果として起きた出来事をそれぞれ結び付け、的確な分析を下していると言えるだろう。結論は、原発事故とそれに伴う放射能汚染は多くの変化をもたらしたかに見えたし、そのような側面は確かにあるが、語られていたほど大きな変化はもたらさなかったというものである。

サミュエルズは、これと関連づけるかたちで、3.11のような巨大な出来事にあったとき、多くの人たちが自身の思考を変えるのではなく、むしろそれをより強めたことに着目する。たとえば、保守派の論客を中心とした勢力は、菅直人を首班とした民主党政権の統治能力のなさを徹底的に批判した。彼ら彼女らは、従来から敵対視してきた民主党政権には全く危機を収める能力がなく、国家を統治するに足るだけの覚悟も人材も無いのだと主張した。

他方、原発の危機をかねてから主張してきた勢力は、自分たちの長年の主張が証明されたと考えた。原発は安全でも何でもなく、非人道的で効率の悪い電力供給システムだということをより声高に訴えたのである。

いずれの勢力も、自身の長年の主張が限りなく良質で説得力をもったエビデンスによって補強されたと思い、そう発言した。彼ら彼女らにとって、危機や事故は、自らの警鐘が正しかったことを証明するものであった。

 

失望に陥らないために

 このように、多くの契機は、その衝撃度や深刻度とは裏腹に、人々の思考を大きく変えるには至らないことが多い。サミュエルズの論考の中では、3.11がなぜそのようなことになったのかについて、明確な回答が提示されている訳では無い。しかし、上述した三つの分野(エネルギー・安全保障・地方自治)において、多くの論者が自身の物語を強化する傾向を持っていたことを明らかにしている点は興味深い。彼が指摘するところによれば、皮肉にも、日本はその復元力、復興力を多くの人々が拒絶したはずの「古いシステム」においても遺憾なく発揮したとのことである。

18歳選挙権もまた、希望に満ちた、変革をもたらすだろうというナラティブを必要以上に強調しているように思われる。この現状は、3.11直後に人々が展開していたナラティブを思い起こさせる。

当時、ありとあらゆる論者らがまるで夢物語を語るかのように、劇的でかつてない変化の訪れを予言し、強調していた。サミュエルズは、冷静で分析的な論者までもがそのような口ぶりになっていることを、驚きをもって書いている。過剰な期待はその反動として既存のシステムの更なる強化という方向性を生む可能性があるということである。

政治や政策を変えるのは簡単なことではないことは多くの人々が了解しているだろう。だからこそ、政治や政策を変える試みは粘り強いものではなければならない。たとえば3.11以降、多くの人々がデモに繰り出し、昨今の集団的自衛権に関する反対デモの系譜を生み出したことは、よく知られている。その内実に賛否はあるだろうが、彼ら彼女らはその思考を変えた事例だと言えるかもしれない。

このように考えると、より幅広い人々にそのような契機を与えることは、社会の変化を促すことに繋がると言える。もちろん、最初に述べたように、選挙人の年代人口の差など、考慮しなければならないことは山積みである(ただし、よく言われていることだが、有権者の年齢が高いことが、政党が提示する公共政策が高齢者の利益を偏重することに直結するという仮説を本格的に論証している試みはほとんどない。このような議論は、実感レベルの感想がそのまま「ナラティブ」として拡散している向きがある)。

いずれにせよ、ありていな話ではあるが、過剰な期待をもちすぎることは容易に失望を生むことになる。自らが信じる物語を強化するためだけに物語を用いるのではなく、幅広い人々と対話できるような形で自らの信念体系を準備しておくことが、契機をよりよく受容する態度であると言えるだろう。

 

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